城址巡り

津川城跡

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【津川城】津川城は、別名を「狐戻城」「麒麟山城」ともいい、麒麟山(通称:城山)の阿賀野川と常浪川の合流部に半島状に突き出た山稜の先端部(標高140m地点)に築かれています。

津川城の始まりは、建長4年(1252年)会津守護芦名氏が、一門の藤倉盛弘に、会津領の西端防備のために築かせたと伝わります。藤倉盛弘の次の盛仁の代から金上姓を名乗り、芦名家の重臣として代々津川城主を勤めました。以来、代々金上氏の居城となったところです。

天正6年(1578年)上杉謙信の急死によって起こった後継者争い「御館の乱」で、15代城主・金上盛備は蘆名盛氏の命を受け、越後国蒲原郡に上杉景虎方として侵攻しています。
天正9年(1581年)に起こった「新発田重家の乱」においては、上杉景勝は蘆名盛隆が新発田重家に加勢しないよう、林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣し、盛備にも誓書を求めました。このため、盛備は一時的に中立を保ちますが、その後はまた重家を援助しています。
天正15年(1587年)景勝が蘆名氏から重家への援助を断つため、金上氏の支城である赤谷城の攻撃に向かうと、盛備は赤谷城に救援に向かいますが、藤田信吉に敗れ、赤谷城は陥落してしまいます。

天正17年(1589年)盛備は伊達政宗との戦いに敗れ、それによって金上氏は滅亡。以後、会津領主は伊達・蒲生・上杉・蒲生と変わりますが、それぞれの領主は重臣を津川城主に任じました。
徳川家康が天下を平定させると、江戸幕府を開いた元和元年(1615年)に「一国一城令」が出され、支城である津川城は、その存続が難しくなり、寛永4年(1627年)藩主・加藤嘉明の時代に廃城となっています。

東側は、痩せ尾根伝いに主峰・麒麟山(標高195m)に達し、ほか三方は険しく切り立った岩盤が剥き出しになった地形となっています。天然の要害地に郭や桟敷壇を設け、随所に竪堀を配し、さらに、中世の山城としては珍しく石垣を積むなどして、山全体が堅固な要塞となっています。
現在は、城跡一帯が麒麟山公園となり、県の天然記念物に指定され整備されています。


Dawn太が来てから、何度か平城巡りはしましたが、この度初めての山城巡り!私たちにとっても、久々になる山城です。
お邪魔したのは、これまでもDawn太を連れ、数回麓までは来た事のある津川城。駐車場も再整備され、真新しいアスファルトになっていました。


「登山道→」の案内板から、僅かに進んだところにある【鶴ヶ沼】

ため池のようですが、沼から南側(後に登場の門跡少し過ぎた辺り)には、沼の延長上に窪地がみられ、それが城の天然外濠の役目をしていた常浪川に繋がっているため、沼も外濠の役目を担うものだったのでは?と思われます。

【搦手門跡】城山の南麓に設けられています。以前は、復元木戸が見られ、城の雰囲気を出していた時もあったんですよ。
大きく屈曲した通路に、当時の名残りを感じます。
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過ぎて、東屋の脇にある「野口雨情の碑」
大正3年(1914年)野口雨情は津川の地を訪れ、城山に伝わるキツネ伝説をもとに童謡を作ったことからあるそうです。

「津川城山白きつね 子供が泣くから化けてみな」と刻まれています。

【搦手口土塁跡】搦手一の木戸から続く大規模な土塁。
屈曲した通路と合わせ、威厳を感じる場所です。
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【侍屋敷跡】南麓に位置し、かなり広く、幅は5~60m、長さは2~300mはあったと思います。在番している家臣の根古屋や、物資の集積場所となっていたところです。


郭の中央には、小さな祠が祀られていました。


通路のすぐ脇は常浪川が迫っている場所です。郭まで水が上がって来ることなど無かったのか?ちょっと心配になりました。
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付近の切岸には、この山本来の岩盤が剥き出しになり、天然の要害らしい雰囲気もありました。岩盤からは水が流れ落ち、水の豊富な山でもあるようです。

【木戸口】家臣屋敷跡西端に設けられた、搦手側二の木戸跡です。
土塁向かって左側は石塁も見られます。こちらは通路の屈曲はありませんでした。
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ここを過ぎると、二の郭へと向かう上り坂になります。(ここからDawn太をフリーにし、お互い身軽に散策しました。)


【竪堀】上り道の途中、城に入って初めての大きな空堀にであいました。この竪堀は、二の郭中央から垂直にあります。二の郭へ物資を運ぶ役目のあった場所でもあるようです。パノラマ撮影してみましたが、水平移動でなく写りがイマイチ。。。


【二の郭】案内板には「馬場」という文字も見られます。


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昭和32年(1957年)5月、佐渡出身の歌人・藤川忠治が麒麟山を訪れた折に35首を詠んだそうです。
歌碑が建てられて60年。老朽化した最後の一基を再現したものがありました。
「馬場址と いはるるここは杉ばやし 暗くしげりて しゃが群咲けり」


見上げるような本郭の塁壁。東端には櫓台らしい土壇が築かれています。

ここは主郭への出入りを監視する重要な防衛拠点です。主郭へと繋がる通路上からも、良く監視できる構造になっていました。

【表門跡】二の郭から主郭に向かう途中で道が二手に別れ、忠犬の向かうに合わせて水の手郭がある方向(左手)に進んでみると、大手のものと思われる虎口跡がありました。下草などがすっかり枯れているので、通路のラインも良く分かります。
紅葉時期の城址は最高です。


【水の手郭跡】この井戸は「お城清水」とも呼ばれ、現在もなお水が湧いていました。


ふと見上げると、二段になった石垣の下段側が見えているようです。


三の郭の役目も果たしたのでしょうか?水の手郭もかなりの広さがあり、主郭を頭上に感じながら、獣道のような細道が続いていました。道は途中で分からなくなりましたが、多分、大手(舟入)に繋がる道ではないか?と思われました。


【石垣】道の分岐点まで戻って来ると、この城の一番の見どころでもある、出丸から水の手郭にかけての高石垣を目の当たりにできるポイントがあります。ここは二段の切岸となり、そのどちらにも石垣が見られます。
この地が新潟県に編入されたのは明治19年(1886年)こと。それ以前の約七百年間、東蒲原郡は「小川庄(こがわのしょう)」と呼ばれ、会津藩領であり越後口への備えとして、代々会津藩の番城とされたところ。それゆえ、越後中世の山城としては珍しい、石垣を積む姿が見られるのですしょうね。


主郭部へ向かう石段。。。これも遺構のひとつでしょう。


【出丸跡】主郭は三段になって削平されてあり、その最下段が出丸跡です。
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出丸からは城下の様子が良く見えます。
先ほどはハーバルパークから紅葉の麒麟山方面が綺麗でしたが、今度は逆に、ハーバルパーク方面の紅葉が見事でした。


出丸から本丸へは、2箇所の虎口がありますが。。。この度も忠犬に従い、石段のある正規ルートより。


石段途中にある【西郷四郎の碑】 「姿三四郎」のモデルとして有名な西郷四郎は、ここ津川出身の人で、幼少期を津川にて過ごしています。津川の正法寺には、西郷四郎のお墓があるそうです。


【本丸跡】削平地の中段。少しヒビの入った「本丸跡」の石柱は、県指定史跡になった昭和40年頃のものでしょうか?


その背後に見えるのは、削平地最上段の塁壁に見られる剥き出しの岩盤。天然の要害を色濃く感じる場所です。


最上段への虎口。それぞれの削平地は、4mほどの段差になって区分されています。


尾根の最先端である最上部。


最上段には展望台があり、江戸期以降の津川河港の在りし日が伺えるような光景が広がっていました。ここからは、平時の居館のあった琴平山城も監視できます。


侍屋敷前まで、ずっと常浪川を添うように散策して来ましたが、ここからはもう1つの天然の外濠である阿賀野川も垣間見えます。


城域の最後には「麒麟山狐戻城跡」と、その隣には「麒麟山城跡」の石碑。

尾根と城域を断ち切る大空堀があり、主郭背後の高台には、城主の氏神で津川城の鎮守社でもあった「金上稲荷神社」が鎮座しています。


歴代城主から厚く信仰されていましたが、廃城により祀るものがなくなり、廃城後の寛保2年(1741年)鵜川兵衛門らによって、ここに神社が祀られました。
水の手郭に向かう途中、右下写真の石柱があったので、それ以前はその場所に祀られていたのかも知れません。


≪津川城 遠景≫


麒麟山はあまりの険しさに「峰渡りのキツネさえも後戻りする」とさえ言われ、そこにある津川城も「狐戻城」の異名があります。
城域外になる金上稲荷神社から先は、山としての傾斜はキツくありませんが、ゴツゴツした岩肌の出た山になっていて、本来本郭を置きたい麒麟山ピークは削平不可能だったため、削平可能で一番眺めの良い尾根先端部に主郭を築いたのでしょう。


天然の外濠であるはずの常浪川も、Dawn太にとっては恰好の水遊び場でした。


登城日 2017年11月12日(日)

平時の居館は、以前訪ねた 琴平清水 裏手の琴平山に「御小屋跡」としてあり、そちらもちょっとした小山なので「琴平山城」とも呼ばれています。
そちらはまたいつか散策するとして。。。
この度は歴史繋がりで、旧会津街道 石畳の道を訪ねてみました。


会津藩領であった津川は、長きにわたり会津・西の玄関口の役目を担ってきました。
現在の国道49号の前身である、阿賀野川に沿った道が明治17年に完成するまでは、「旧会津街道」が主要道として利用されていました。


旧会津街道は、新発田→赤谷→諏訪峠から津川を通り、野沢→東松峠→坂下→若松と抜ける全長およそ92kmの街道です。古くからの街道ですが、慶安2年(1649年)頃、会津藩により整備されたと考えられています。


新発田藩や村上藩の殿様が参勤交代に利用していたことから「殿様街道」とも呼ばれており、石畳の道のほかに一里塚が残るなど、古の時代を現在に伝える場所となっています。

切通しの気持ち良い散策路。 飛び出た倒木にビビるDawn太がおりました。


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