Dawn太と行く名水の旅

【Part68】親鸞聖人清水

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----- Friday, November 3, 2017 ----------

初詣にはじまり、彌彦神社へは年に数回お邪魔しますが。。。
この度は弥彦公園から、神社の一の鳥居に向かって徒歩散策だったので、思い掛けない場所で清水を見つけることになり、菊まつりからの帰りに立ち寄ってみました。


親鸞聖人清水は、彌彦神社南の門前町、「聖人坂」と呼ばれる小径に位置します。

写真の史跡碑があるお宅▲(当時の庄屋・林部四郎治)の私有地裏手の竹林の中に、その清水はありました。


(史跡)聖人清水 ・場所 西蒲原郡弥彦村弥彦


近年建てられたであろう東屋下には、今でも井戸内に少しずつ清水が滲み出ているようで、静かに、清らかに溜まった水が見られました。

皆さんもよくご存じの親鸞聖人は、鎌倉前期~中期に活躍した僧で、浄土真宗の宗祖とされている人物です。
9歳で出家すると、青蓮院の慈円の元に出家の儀式(得度)を受け、出家後は叡山(比叡山延暦寺)にて天台宗の堂僧となり、不断念仏の修行を行います。20年間にわたる自力修行をしたものの、叡山では悟りに至る道を見出せず、29歳で山を下り、聖徳太子建立の六角堂にて、後世の祈念のため百日参籠をされます。この95日目に聖徳太子が現れる霊夢を見た親鸞は、この夢の告げに従って東山吉水の法然の草庵を訪ね、これを契機に法然の門弟となり、浄土宗の教えを受けます。以後、浄土宗の宗祖とされる法然を師と仰ぎ、継承した浄土教の教えを高めて布教することに尽力します。

ところが、元久2年(1205年)興福寺の衆徒により、朝廷に法然の提唱する専修念仏の禁止を求める『興福寺奏状』が提出されます。それに加え、後鳥羽上皇が熊野詣に行った折、院の女房たちが法然門下の遵西・住蓮が開いた念仏法会に参加し、これにより、出家して尼僧となってしまうという事件が起こります。院の女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、これが上皇の怒りを買い、専修念仏は停止になり、西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西らは死罪。法然・親鸞を含む7名の弟子に流罪が命じられるという「承元の法難」が起こることとなります。

これにより親鸞は、承元元年(1207年)35歳の時に越後の国府(現在の上越市)に流罪となり、軟禁状態を強いられることとなります。建暦元年(1211年)に許されたものの、師である法然の死を知って戻る理由を失い、京には戻らず、国府の竹之前草庵にて、三善為教の娘と伝わる恵信尼と共に結婚生活を営まれ、三男三女をもうけられるなど(詳しくは ゑしんの里訪問記 参照のこと)越後国にて浄土教の布教活動に尽力されました。

彌彦神社参拝もそのような背景から行なわれ、親鸞は当時の庄屋である林部四郎左衛門宅に宿泊したと伝えられています。
聖人が林部家に滞在した折に使用したと伝わる「鍋」が、麓の廣福寺(浄土真宗仏光寺派)に、今でも残されているそうです。

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古くから、弥彦一帯は堅い岩盤で、度々水不足に悩まされていました。ある日、老婆が近くの川から水を汲み親鸞の世話をしたことから、家人の水に苦しむ姿を憐れみ、林部宅の裏の竹林の一隅を持参の杖で突いて仏に念じたところ、たちまち水がコンコンと湧き出したと伝えられています。人々は聖人の徳を喜び、この場所を「聖人清水」と呼ぶようになりました。

また、同家滞在の折、当時の聖人が愛用していた椿の杖を自ら林部家の裏庭に植えたものが成長し、枝下三間の大樹になったとか。。。聖人は越後国に7年間滞在していますが、県内各地に様々な伝説が残されていて「親鸞の七不思議」となって伝わっています。(「七不思議」関連記事は こちら から。)

彌彦神社参拝の折、親鸞聖人が詠まれたという和歌一首が刻まれた碑がありました。
「願はくは 都の空に 墨染の 神吹き返せ 椎の下風」

建保2年(1214年)親鸞聖人42歳の時、恵信尼・子どもらともに越後から関東に赴かれ、常陸(茨城)の小島や稲田の草庵を中心として多くの念仏者を育てられつつ、元仁元年(1224年)頃、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生の大著「教行信証」を著されます。

晩年には京に戻って著作活動に励み、弘長2年11月28日(新暦1263年1月16日)実弟の尋有が院主を務める善法坊にて、90歳で入滅したと伝えられています。


----- Dawn太 2歳8ヶ月(生後984日)-----


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