attention admin about comments trackbacks you may also like

【Part65】景勝清水

2017年06月10日
Dawn太と行く名水の旅
-
加治川治水ダムへ向かうには、行き帰りに県道335号を通過するのですが、その路線沿い、ダム手前にある赤谷地区で偶然に水小屋を見つけたので、ダム見学を終えて戻る際、そちらの水場にも立ち寄ってみました。

景勝地にあるのでこの名なのか?と思ったら、上杉景勝公の「景勝」だったようです。

清水についての由来がみられました。
上杉景勝公が小田切氏を攻めるため、この赤谷地区に布陣した際、山上にいたため飲料水に困り、自ら陣場を下りて辺りを槍で突いたところ水が湧き出し、景勝軍はこの清水で渇きを癒して士気も上がり、3日後に赤谷城を攻め落城させたのでこの名があると。

確かにここは、景勝公が新発田重家公と戦った際、陣場があったとされている付近で、赤谷城山の東麓に位置する清水です。

天正9年(1581年)新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした「新発田重家の乱」において、蘆名氏に仕えていた小田切盛昭が新発田氏を支えるために築城したのが赤谷城です。会津からの物資輸送路として、重要な役割を果たしていました。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の越後平定の命により、上杉景勝は新発田重家と対峙します。
しかし、会津の葦名義広は新発田方に味方したので、会津から新発田への支援路を断ち切るため、小田切氏の守る赤谷城を攻めました。上杉景勝は直江兼続らを連れ、上赤谷地区南の小山に三日間布陣。小田切軍の千人に対し、上杉軍は一万人と、赤谷城を巡る攻防は数の上でも上杉軍が圧倒的。城兵は赤谷城に立て籠りますが、僅か一日で落城し、小田切盛昭以下城兵は全滅。既に水上での補給路を断たれていた新発田城と五十公野城は、赤谷城陥落により陸路での補給路をも断たれて完全に孤立し、新発田氏は滅亡しました。

以前は名も無い清水だったようですが、大河ドラマを機に(多分)景勝公の名のついた清水の大看板が掲げられたようです。
景勝清水・場所 新発田市赤谷地区

ダム見学の時に車から降ろし、一緒に散策するつもりが、雨が降り止まずに断念!
ようやくここで降ろしてもらえたものの、すっかりご機嫌損ねてしまい。。。
水飲み隊長はマーキング行動ばかりで、一向に水を飲む気配はありませんでした。(汗)

名水の指定などはありませんが、触れれば冷たく、クセの無いまろやかな美味しい水でした。

清水の眼下には加治川。
同じように加治川を望む近くの名水が、Part46でお邪魔した「県の名水」にも指定されている飯豊のせいすいです。
歴史多いこの地域、綺麗な水も豊富な土地柄なのでしょう。

----- Saturday, June 3, 2017 (Dawn太 2歳3ヶ月 / 生後831日)-----
関連する記事
そふぃあ
Posted by そふぃあ
最後までお読みいただきありがとうございます。
※撮影した写真の著作権は放棄しておりません
画像のお持ち帰りは固くお断りしております※