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十二山神社と銀山間歩

2016年07月18日
歴史を訪ねて
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山の神を祀り、事故の犠牲者たちの供養塔が残る「大福銀山十二山神社」

国道352号を枝折峠方面とは逆に走ると(通称:樹海ライン)、銀山平から26キロ、県境まであと9.4キロという奥只見湖(銀山湖)を望める山中に、「大福銀山十二山神社」が祀られています。
大福銀山十二山神社

江戸時代に只見川の上流で銀が発見されると、越後(高田藩)側の上田銀山と会津(会津藩)側の白峯銀山の2つの鉱山が開かれ、合わせて大福銀山と呼ばれていました。しかし、二度にわたる出水と坑道の崩落により、江戸時代末期には、大福銀山は完全に閉山してしまいます。その後、昭和28年(1953年)から奥只見ダムの建設が始まり、総工費360億円をかけ昭和37年(1962年)に完成。これにより、集落と上田銀山・白峯銀山の間歩跡は湖底に沈んでしまいます。
奥只見湖の正式名称は銀山湖といい、かつてこの付近が銀山平とよばれていたことに由来します。しかし、実際に銀を採掘した銀山の位置とは異なり、恋ノ岐川から大津岐川にかけての只見川流域が銀山であり、国道352号沿いの滝ノ沢に銀山跡をみることができます。越後・高田藩は、銀山開発に着手した明暦3年(1657年)に山の神「十二山神社」を祀って起工式を挙行。
集落が水没してしまった今、神社は供養塔と共に、湛水地帯を見下ろせるこの地に移築されています。

大福銀山十二山神社

大福銀山十二山神社の御手洗鉢
天然石に「明暦酉年四月吉日」と刻まれた御手洗鉢は神社建立時に奉納されたもの。
左隣に半分写る石臼は、銀の採鉱時、採掘した原石を引き砕いて精錬をすすめるために用いられたものです。
大福銀山十二山神社の御手洗鉢

神社から奥只見湖を望む階段を下ると、ダムの湛水前に十二山神社とともに移設された供養塔と、幾つかの墓石がみられます。
大福銀山十二山神社境内

この供養塔は、当時、銀山で鉛山を経営していた野州佐野天明町(栃木県佐野市)の鋳物師であり鉱山師であった正田利右衛門が、安政3年(1856年)9月、上田銀山の安泰と、山で没した人々の冥福を祈り、また、明暦3年(1657年)の高田藩による銀の採掘開始以来、200年の節目にあたるのを記念して建立したものです。(銀ばかりでなく、鉛の採掘もされた場所でした)

当時の鉛山は、日本近海に外国船が出没し、幕末の動乱期を控えて銃弾の鉛の需要が高まった時代背景の中での採掘でした。
供養塔

水没前の供養塔が建てられていた場所は、銀・鉛の精錬が行われた買石原でしたが、奥只見ダム湖に水没するのを避け、湖底に眠るかつての銀山の追懐で、以前の買石原を見下ろせるこの地に移されました。(当初は入広瀬の明神沢(シルバーライン沿い)へ行われましたが、ゆかりの地にあるのが最善と、改めてこちらに移されています)周辺の墓石は、後世になって集められたもので、嘉永・安政時代の鉛山に家族を伴って働いていた、現在の三条市下田地区の人々や、地元魚沼の小出島、会津の人などの無縁仏の墓石です。

江戸時代の銀山坑道跡へ向かう道の途中で

供養塔のある場所奥には案内版があり、ここからさらに山道を210m下ると、銀の採掘をした銀山間歩(坑道跡)があると書かれていました。
途中、ちょっとだけ道を外れ、鉄塔の管理用通路の方へと足を延ばしてみると
道を脱線してみる

奥只見湖が望める絶景ポイント!
奥只見湖を眺めるDawn太

奥只見湖の左側は福島県。そして、右側は新潟県という眺めです。
絶景の奥只見湖

ダム湖に水没せず残った貴重な坑道跡「銀山間歩」

改めて道を戻り。
歩道入口に立つDawn太

少し下った辺りに、ポッカリと開いた銀山間歩(坑道跡)がありました。(本犬、こういう場所はちょっと苦手)
銀山間歩

寛永18年(1641年)7月上旬、折立村の百姓・源蔵が赤の川(只見川)で鱒漁に入り音無せ淵付近の崖で光る石を見つけ、欠き取って持ち帰ります。大沢村の鍛冶・藤右衛門に精錬してもらったところ、それは銀であることが分かり二人は高田藩に注進しました。
高田藩は幕府に報告すると同時に、現地で試掘・銀鉱石の存在を確認しました。幕府からは時の大老・酒井讃岐守の採掘命令が高田藩にもたらされました。一方、会津側からは「会津領だから採掘をやめよ」と、強硬に申し入れがあり、国境は枝折峠だと主張する会津側と、只見川の流心だとする越後側の争いは幕府の裁定に委ねられ、4年後に越後側の全面勝訴となります。
明暦3年(1657年)3月6日、高田藩は山の神「十二山神社」を祀り、盛大なお山始めの儀を挙行、大福銀山と名付けて本格的に採掘にかかりました。元禄2年(1689年)からは幕府の直営となり、江戸の事業家・河村瑞軒に経営が委ねられ、坑夫など数千人の銀山最盛期を迎えます。

良質な銀を産出し、諸制度も確立されて順調に経営され、元禄期の銀山は16年間続きましたが、宝永3年(1706年)坑内排水作業の手違いから坑道が崩落し、多数の死傷者を出す事故が起こります。幕府は銀鉱石を掘り尽したと判断し、その年のうちに閉山してしまいました。
銀山間歩

以来、大自然に包まれて200年に渡り眠りつづけた銀山でしたが、幕末の寛永3年(1805年)から10年余り、正田利右衛門の鉛の採掘で、再び槌音が鳴り響くようになります。鉛は多い時で年間19,000貫(約72,000kg)を産出したといいます。
ところが、安政6年(1862年)採掘中に過って只見川の河床を掘り抜いてしまい、大量の水が入り、300名余りの死傷者が出てしまいます。これが致命傷となり、上田銀山はまったくの再起不能に陥り、完全閉山となります。

その大部分の遺構はダム湖の中に水没してしまいましたが、奥只見湖を見下ろす傾状沢付近の急斜面に、水没を免れた5箇所ほどの間歩跡が残っています。
銀山間歩を覗くDawn太

今から約300年ほど前に、銀の採掘のために掘られたものです。
人力だけの手掘りなので、大人がしゃがんでやっと入り込めるほどの小さな穴でした。「むじな堀り」といって、当時は小さな坑道をたくさん掘って採掘していたようです。
銀山間歩内部

おっ、びっくりしたぁ~!


振り返ったらDawn太の顔がすぐ近くに…。
犬もビビりだが、実は私も相当なビビり。古穴を覗くだけでもちょっとドキドキ!
私の背後にいたDawn太

度々、奥只見湖に足を運ぶようになり、ずっと水没したという村の存在が気になっていました。
今回偶然にも実際に訪れる事ができて、その位置関係や、深い山の中にあったことなどが分かって、また1つ勉強になりました。

おしまいに

さて、ここからさらに26キロの山道を戻ります。行きにも驚いたのですが、この国道は本当に水が豊富で、幾つもの沢があります。「洗い越し」といって、山の斜面から沢水をそのまま道路上に流している箇所も数か所あるんですよ。

山の途中に設けられた駐車場から。
思うほど奥只見湖が望める場所では無かったですが、さすが豪雪地帯!対岸の山には雪渓がみられました。
銀山の山々

山は何処までも深くて、電波も届かず心細くなるけど、奥只見湖からの風は心地よく、下界が30℃を超えた日だったなんて、信じられないくらい涼しかったです。
奥只見湖

----- Sunday, July 10, 2016 (Dawn太 1歳4ヵ月|生後503日)-----
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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