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思いがけず金沢♪

2015年12月28日
お出掛け
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富山県で探し物が見つからず、そのままさらにお隣の石川県入り。
県越えしたものの、目的の店舗が無いまま、気づけば移動は金沢市内の香林坊まで。結局、金沢まで来てなお探し物は見つけられず、せっかく27年ぶりにこの地まで来たので、時間が許す限り、名所の「ちょい巡り」をしてから帰ることにしました。

第7代・溝淵校長像とDawn太(祝・石川県入り)

建物は、明治20年(1887年)に設立された旧制第四高等学校の校舎だったもので、現在は石川近代文学館・石川四高記念館となっています。現存する校舎は、明治24年(1891年)竣工のレンガ造りの建物で、設計は当時の文部省の山口半六です。設立に際して旧藩主・前田家から、当時の額で7万8千円余りが寄付されたそうです。
溝淵校長像とDawn太

入り口両脇に、2本の大きな「堂形のシイノキ」が印象的でした。
金沢城が築城された頃、京都の三十三間堂を模した堂形の的場があったことから堂形と呼ばれたそうです。明治時代に石川県庁が置かれた頃の絵や写真にも見られ、樹齢約300年ともいわれる古木です。県庁舎は大正時代に建替えられていますが、この堂形のシイノキと建物正面が一体となった景観は、以前の面影を語るものだそうです。
堂形のシイノキ

金沢城址周辺巡り

加賀百万石のシンボル、金沢城の見事な石垣が見えて来ました。
金沢城址_Dawn太_300日

金沢城の地には、かつて加賀一向一揆勢力の拠点-金沢御堂(尾山御坊)があり、天正8年(1580年)信長の命によりこれを攻略した柴田勝家軍の佐久間盛政がここに入り城造りに着手したと伝えられます。わずか3年後の天正11年(1583年)賤ヶ岳合戦により佐久間が敗れると、前田利家は秀吉から金沢の城を与えられ、能登七尾の小丸山城からここへ移って本格的な建城が行われ、明治2年(1869年)まで、加賀藩前田家14代の居城となります。
金沢城址_Dawn太_300日

現在は金沢城公園として一般公開され、消失した遺構の復元作業などもすすめられています。周辺地は綺麗に整備され、市民や観光客の憩いの場にもなっています。Dawn太の喉の渇きも癒えたようなので、ここからちょっとだけ巡ってみます。

いもり堀と鯉喉櫓台石垣

金沢城の南西側を囲む「いもり堀」明治40年(1907年)に旧陸軍により上部削平と埋め立てが行われ、旧陸軍用地を経た戦後はテニスコートになっていましたが、近年の工事により、往時のかたちに復元されています。(水深5尺≒1.5m)
金沢城址_Dawn太_300日

いもり堀と共に、その南東端に置かれた鯉喉櫓台石垣も復元されています。
いもり堀と同年に地上部が撤去されていましたが、平成10年からの発掘で残存高9.6mが分が確認されています。復元作業では、遺存部から4.8mの積み増しが行われました。現在の歩道になっている辺りにも、鯉喉櫓台石垣があったということになります。
  • 創建 元和(1615~24年)または寛永(1624~44年)頃
  • 修復 正保元年(1664年)、寛文4年(1664年)
金沢城址_鯉喉櫓台

発掘された石垣は、寛文4年修復時のもので、ツルやノミなどの工具で整えられたものが、整然と積み上げられていました。
石垣上の建物は塀が知られるのみで、櫓は建っていなかったようです。

本丸南面の高石垣(辰巳櫓下~申酉櫓下)

金沢城址_本丸南面の高石垣

自然面を残す粗割石を積み上げた割石積みの石垣です。
明治時代に上部が取り壊されて現在の姿になりましたが、もとの高さは約十二間(約22m)以上あり、城内随一の高石垣でした。
  • 創建 慶長年間後期(1610年代)
  • 改修 寛文(1661~73年)頃、元文元年(1736年)、安永6年(1777年)、安永9年(1780年)、文化13年(1816年)
  • 現状 上部は明治時代に撤去・改変 下部は概ね藩政期の姿を留める

百間堀石垣

金沢城址_百間堀石垣

金沢城において、特に石垣に拘ったのは初代・前田利家、3代・前田利常、5代・前田綱紀の3大名。
自然の石や、粗割りしたでけの石を用いて積む「野面積み」、形の整った割石を用いて積む「打ち込みハギ」、割石をさらに加工した切石を用いて、隙間なく積む「切り込みハギ」と、それぞれの時代背景までわかるような石垣が各所で様々に見られます。
金沢城址_百間堀石垣

この辺りは時代の古い野面積み。石垣同士の隙間を埋める栗石も見られます。
金沢城址_百間堀石垣

よく見ると、石には様々な刻印が施されています。
金沢城の石垣全体では1,400余りあるともいわれ、どの大名や家臣が積んだのかがわかるようになっています。

東の丸東面の石垣

金沢城址_東の丸東面の石垣

東の丸の石垣は、金沢城で本格的な石垣造りがはじまった文禄元年(1592年)に造られた城内最古の高石垣です。
最上段の6m分は小段をつけて積み上げられているものの、石垣の総高は21mに達し文禄期の石垣としては日本有数の規模を誇る自然石積み石垣です。
  • 創建 文禄元年(1592年)
  • 改修 元文元年(1736年)辰巳櫓下
  • 現状 創建時の石垣(一部を除く)

石川門

現在、金沢城の象徴ともいうべきなのが、金沢城公園の入り口にそびえる石川門。
石川郡の方向を向いていることから、その名が付けられたといわれています。実は、城の搦手門なんですね。
金沢城址_石川門

石川門は宝暦9年の大火によって全焼しましたが、天明8年(1788年)に再建され、その後、幾度の修理を重ねて現在の姿になっています。

前田利家公と

前田利家公像とDawn太

白鳥掘跡にて

金沢城址_白鳥掘跡

左側から、室生犀星、泉鏡花、徳田秋彦の金沢三大文豪と。
やっぱり、生命体でない銅像は苦手(汗)

大手門(尾坂門)

金沢城址_大手門

前田利家の居城となると高山右近の指導により大改修が行われ、現在の黒門口にあった大手を尾坂口に移したと伝わります。
大きな櫓台石垣が残っていますが、櫓や長屋が記載された資料が残っておらず、屋根付きの棟門が設けられていたものと思われます。

陰陽の大石を使う鏡積み

金沢城址_大手門

大手門は、巨大な割石を使った石垣です。金沢城の石垣の中で最大のものも組み込まれています。
巨石は「鏡石」と呼ばれるもので、城の正面に用いられ威厳を現すものです。
金沢城址_大手門
  • 創建 慶長(1596~1615年)頃
  • 改修 寛永8年(1631年)頃、寛文(1661~73年)頃など
  • 現状 おもに寛文頃修復時の姿が残っています

大手桝形を通って入ると、広大な面積の新丸広場が広がっていました。向こうに見えるのは菱櫓や河北門でしょうか。
金沢城址_本丸

城内へは犬連れでは立ち入れないので、交代で見学しました。待っている間、大手堀の様子もまた綺麗でした。
金沢城址

大手堀の石垣

金沢城址_大手堀の石垣

堀際にある粗割石を積み上げた石垣は、金沢城初期(慶長)の石垣です。この頃、尾坂から河北坂を経由して本丸へ至る大手筋の要所が石垣で固められました。
上段の石垣は尾坂門台の石垣で、大きな石を組み込む手法に特徴があります。
  • 寛政11年(1799年)の地震で崩れ、翌年に修復されました。
  • 創建 慶長(1596~1615年)頃
  • 改修 寛政12年(1800年)
  • 現状 上段は寛政改修時、下段は創建当時か?
金沢城址_大手堀の石垣

散策終わりに、黒門入り口にある金澤屋珈琲店で

黒門口まで来ると、そろそろ夕方の4時で時間もいっぱい、いっぱい。
黒門入り口にある金澤屋珈琲店でテイクアウトコーヒーを購入し、軽く迷子になりながら駐車場へと戻りました。
金澤屋珈琲店

おしまいに

犬連れでは見学できない箇所もありますが、我が家は遺構しかない山城巡り専門なので、遠くから櫓や門の姿が見えるだけでも非常にテンション上がります。これだけの年代の石垣が揃っているお城は、他にないでしょうし。

距離的には、東京まで遊びに行くのと変わらない場所。なのに、高速料金は東京に行く半値程度で遊びに行けるとわかったので、本格的なお城や城下巡りとして、再び訪れてみたいと思いました。

----- Sunday, December 20, 2015 (Dawn太 生後9ヶ月|300日)-----
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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