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開山堂(両大師)周辺にて

2014年10月29日
集 活
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以前から、東京散策で行ってみたかった場所。。。徳川家もうひとつの菩提寺である上野の寛永寺でした。
ずっとそう思っていた矢先、先に鬼押出し園で寛永寺別院を訪問することになり、やはりこれは何かに呼ばれているんだ。。。と、寛永寺参り決行でした。

上野駅で下車すると、殆どの人たちは上野恩賜公園方面へ。。。
私たちだけそこからさらに先に進みますが、人の姿は殆ど見られず、とても静かな環境の中、突如お寺が姿をみせます。


輪王殿前の旧本坊表門を過ぎてある両大師は、慈恵(じえ)大師と慈眼(じげん)大師の両大師を祀った場所です。
慈眼大師=南光坊天海
徳川家康公の側近として江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に深く関与した人物であり、家康公が亡くなると日光中興の祖となった人物です。

一方の慈恵大師は、康保3年(966年)から19年間に渡り、天台宗の座主の職にあった良源大僧正で、天海僧正が深く信仰していた高僧です。

開山堂、慈眼堂、大師堂の名もありますが、両大師の方が一般的なようです。

山門入って左右の様子。

本堂正面参道の両側には、日光でも随分と見た銅灯籠がみられました。
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大猷院霊廟前に、徳川御三家が奉献したものだそうです。

お寺に蓮はよく似合いますが、お寺では、大賀博士の手により、2千年の眠りから覚めた古代蓮の池が見られました。 開花時期はさぞ綺麗なことでしょう。

【両大師 御朱印】

お堂は正保元年(1644年)、寛永寺開山の祖である天海僧正の像を安置するため建立されたものです。
天海僧正は慶安元年(1648年)朝廷より慈眼大師の諡号を受けられたため「開山堂」や「慈眼堂」と称しました。

天海僧正は本坊内に慈恵堂を設けていましたが、入寂後に建立された開山堂に、天海僧正が最も尊敬した平安時代の高僧・慈恵大師良源の像も安置したため「両大師」と呼ばれるようになり、以来庶民に親しまれています。

開山堂の創建
は正保元年(1644年)ですが、現在見られるお堂は、平成5年(1993年)に再建されたものです。

開山堂脇には、お釈迦様の寝姿をした石と、1本から「一重」と「八重」の花が咲くという御車返しの桜がありました。後水尾天皇が京の寺で花見を終えた帰路、余りの花の美しさに牛車を返して再びご覧になったエピソードからこの名があるそうです。
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両大師境内から輪王殿へ抜ける場所に見られる小さな門は、明治の文豪・幸田露伴の旧宅の門で、台東区谷中にあったものを移築しています。瓦葺の簡素な腕木門で、柱や梁、垂木など全てが丸太造で、明治期の仕舞屋の風情を良くとどめたものです。

慈眼大師(天海僧正)の三百五十回法要にあたり、新たに建立された輪王殿。

輪王殿の正門となっている黒門は、寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)
江戸時代、現在の上野公園には寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていました。
現在の噴水池周辺に本尊の薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(束京国立博物館)に本坊があり、東叡山の山主である輪王寺法親王が居住していました。慶応4年(1868年)5月に起こった彰義隊の戦争により悉く消失し、表門のみが戦火を免れてここに存在しています。明治11年(1878年)帝国博物館(束京国立博物館)が開館すると正門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するのに伴い現在地に移建されています。
門の構造は切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門。門扉には官軍攻撃の際の弾痕が幾つも残されていて、当時の戦闘の激しさが伺えるものです。




輪王殿を出発し寛永寺を目指していると、「大猷院殿 慶安五年」の文字が見える石灯籠に出会いました。(地図Ⓐ地点)
私たちが通過の道路側に入り口が向いたお寺が2つしかなかったので、その時には気がつきませんでしたが、この一角は現在でも13寺ほどが密集している場所で、「東叡山」や「旧東照宮別当寺」などの文字が見えることから、寛永寺の子院なのだろうと思われます。(寛永寺子院は全19あり 非公開)

この道の突き当たりに、寛永寺の霊園が広がっていました。
霊園付近には、徳川歴代将軍御霊廟が見られます。寛永寺の御霊廟には4代・家綱公、5代・綱吉公、8代・吉宗公、10代・家治公、11代・家斉公、13代・家定公の6名の将軍方が埋葬されています。
御霊廟は第二次大戦の際にその殆どを焼失していますが、勅額門と水盤舎が現存し、非公開ながら宝塔に当時を偲ぶことができます。

重要文化財 ≪厳有院殿御霊廟≫   江戸時代・延宝9年(1681年)建立

4代将軍・家綱公は、慶安4年(1651年)4月 父・家光公の死により、僅か10歳で将軍の座につき、延宝8年(1680年)5月8日に39歳で没しています。法名:厳有院

病気がちであった家綱公時代の政務は、主として重臣の手に任されていましたが、特に後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名です。時代は家綱公の襲職直後に起こった「由井正雪の乱」の解決を機に、ようやく安定期へと入ります。
家綱公霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失しましたが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共にこれらの災いを免れた貴重な遺構です。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。

水盤舎は延宝8年に家綱公のために造立されたものですが、昭和32年の改修時に発見された墨書銘により、勅額門は上野霊廟の家光公勅額門であったものを転用したものであると思われます。

さらに歩いて行くと、霊園の中に石垣が積まれているのを見ながら進みます。

着いた先の塀も、城郭の石積みを持ち出し、コンクリートで固めたように見えるもので、中には先ほどと同じような形式の門が見られました。

重要文化財 ≪常憲院殿御霊廟≫   江戸時代・宝永6年(1709年)建立

5代将軍・綱吉公は、延宝8年(1680年)5月、兄の家綱公の死に伴い将軍の座につき、宝永6年(1709年)1月10日に63歳で没しています。 法名:常憲院

綱吉公は善政を行い「天和の治」と賛えられますが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として有名です。
元禄11年(1698年)9月 綱吉公により竹の台に寛永寺の根本中堂が建立されます。造営奉行は柳沢吉保。 資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門でした。また、それに伴い先聖殿(湯島聖堂)が上野から湯島に移されています。
綱吉公霊廟は宝永6年の11月に竣工しましたが、それは歴代将軍の霊廟の中でも最も整ったものの一つでした。その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失しています。 残された勅額門と水盤舎は災を免れた貴重な遺構です。
勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。

門前には燈篭の土台のようなものが。。。

門以外は非公開になっていますが、綱吉公霊廟内にある家定公墓所の隣には天璋院篤姫さまの墓所があり、その宝塔脇には、好物だったという枇杷の木が植えられているそうです。

次回はいよいよ寛永寺本堂へとお邪魔します。つづく。。。
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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