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上田原古戦場・石久摩神社

2012年03月29日
歴史を訪ねて
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板垣神社を後にし、時刻はそろそろ夕方の5時。
上田原古戦場・観音寺

上田原の見学も、日没次第であと僅か。何処まで見学出来るのか。。。急げぇ~!
。。。と、細い道を走ってやって来たのは “石久摩神社”
上田原古戦場・石久摩神社

創立年代は不明ですが、旧上田原村の産土(うぶすな)神で、文政10年(1827年)4月神衹官より 社号を明神社から石久摩神社へ改めています。そして、それ以前の上田原の合戦の際には、武田信玄の本陣が置かれた場所です。

鳥居を潜ってある石段の上に立つと見えるその景色には、村上義清のいた敵陣・岩鼻の崖が良く見えます。その眺めはまた後程。。。

一般的な神社の場合、鳥居を潜って進むと真っ直ぐ前に拝殿、本殿がありますが、この神社は鳥居から見て直角に鎮座しているのが特徴的で、私の勝手な推測ですが、戦国時代、本陣として使用された際の名残りがあるのかも。。。と。


境内に建つ『上田原古戦場』の石碑


両軍合わせて数千人という戦死者を出した上田原の合戦は、後に勃発する川中島合戦の前哨戦ともいわれる有名な戦である事から、後世に伝えるため昭和44年に建立されたものだそうです。

≪上田原合戦の流れ≫

天文12年 9月 武田晴信(信玄) 佐久郡に侵略
〃 15年 5月 武田晴信 佐久郡内山城を攻めとる
〃 16年 8月 佐久郡浅間山麓小田井原で武田軍、関東管領・上杉憲政の軍を破る
〃         武田晴信 佐久郡志賀城を攻めとる
〃 17年 2月 1日 武田晴信 甲府を出陣
〃       14日 村上義清と武田晴信(信玄)上田原で激戦 
晴信惨敗の憂きめに遭う
*武田軍・板垣信方、甘利虎泰など討死
*村上軍・屋代源五、小島権兵衛、雨宮刑部など討死
〃     3月 5日 武田晴信 諏訪郡上原城へ退く
〃     4月    村上義清 佐久に侵入し諸城攻めとる
〃     7月    武田晴信 筑摩郡塩尻峠で小笠原長時(信濃国守)の軍を破る
〃     8月~9月までに晴信 佐久諸城を取り返す
〃 19年 9月    武田晴信 村上義清の前線基地である砥石城を攻めるが大打撃を受け撤退
〃 20年 5月    武田軍の先鋒・真田幸隆 砥石城攻略
〃 22年 4月    葛尾城落城 村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り落ち延びる


拝殿の脇にはこのような案内板がありますので、矢印に従い、神社の裏手へと行ってみる事にしました。


最初に潜った鳥居付近同様、上田原一帯(写真中央に見える野球場の照明の場所が上田原合戦公園)と、村上義清が本陣を置いたという岩鼻の崖(須々貴城)や和合城方面が良く見えます。

岩鼻の崖までは、直線距離にして3km半程でしょうか。一方の本陣に立ち、敵陣を見る時、いつも同じ緊張感のようなものを感じます。

当初、武田軍は、村上氏の本拠地・葛尾城の背後から狙う事を計画していましたが、村上軍が城を出発し、佐久へ進攻中という情報が入った事で、村上軍の行く手を遮るため、この倉升山に陣を敷いたのだそうです。


神社裏手の田んぼの畦には、上田原合戦の無名討死者の墓があります。
元々バラバラにあったものを、ここにまとめたものらしく、この他にも、このような五輪塔が周辺に数か所見られます。


無名討死者の墓付近に立つ案内版ですが、信玄道を確定出来るような案内板が見つけられなかったため、その周囲の雰囲気だけ味わって来ました。

看板内に「御陣ヶ原」という地名が見られますが、倉升山一帯には物見山、合図山、兵糧山、御陣ヶ入、御陣ヶ原、鉦ヶ窪、味方原など、武田軍の布陣を示す地名があり、一方、村上軍が陣を据えた天白山には、下って物見塚、産川崖上には三兵、村上の旗を立てたという旗塚の跡などがあり、共に今も小字名として残されています。

訪問日 : 2011年10月9日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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