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山寺薬師・聖の窟

2011年11月01日
親鸞聖人と七不思議
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人柱供養堂を後にし、車はさらに山の上へと進みます。
板倉区の中心地から、東南に約8キロの地にある山寺薬師は、千数百年前から山岳仏教の拠点として、三善一族の帰依を受け、山寺三千坊といわれたほどの一大勢力を有していた場所です。

駐車場に車を停め、樹齢700年と言われる杉並木の続く石段をのぼって行きます。
山寺薬師・聖の窟

階段の中ほどから、両サイドには石仏が見られますが、傍に行ってお顔を見たら、あまりにもビッグスマイルで、一瞬疲れを忘れ、こちらも一緒に笑ってしまいました。
山寺薬師・聖の窟

209段の石段の山道をのぼりきった先に、山寺薬師堂が現れます。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師は、今から千数百年前の白雉年間(650~654年)に山岳佛教の先達として紀の躬高(きのみたか)により 丈六山に開かれ、山寺三千坊の名蹟が謳われていました。天台宗の寺院として七堂伽藍が立ち並び、一大本山であったと伝えられていますが、嘉應元年(1169年)加賀の国司・藤原師高(もろたか)の濁世の争乱の際、白山の僧兵側にこの山寺が同じ山岳佛教の立場から加担したため、全て焼き払われてしまいます。更に、延徳2年(1490年)に書き残されたこの山寺の別当社・日枝神社の記録からも「鎌倉に敵し残らず三千坊潰され」とあり、再び戦火がかかった事で、古記録は悉く焼失しているとのことでした。
山寺薬師・聖の窟

御堂内には、座像平均142cmという山寺薬師三尊像が安置されています。
山寺薬師・聖の窟

正面向かって右から釈迦如来座像、薬師如来座像、阿弥陀如来座像
山寺薬師・聖の窟

現存する像は、鎌倉~南北朝時代に三善一族の帰依を受け、繁栄をみた山寺三千坊の焼失後の応永年間(1390~1427年・室町時代)に再建されたもので、桧の寄せ木造り。
薬師如来座像の背部胎内銘には「大檀那三善讃阿 応永二年七月二日 大仏師筑後法眼」(応永2年=1395年)と、釈迦如来座像頭部の裏銘には「勧進沙門祐山 明徳五年七月十日 作者 六条仏師筑後法眼」(明徳5年=1394年)と、それぞれに墨書銘が記されていて、胎内に墨書銘が記されている仏像は他に類が無く、昭和53年12月に、県の文化財に指定されています。
仏像の作者が、京都六条の仏師・筑後法眼であることから、京都から運ばれ、この地で組み立てられたと推定されています。この仏像の寄進者である三善讃阿沙門は、恵信尼の父ではないかといわれている三善為教の子孫である事からも、この場所は大檀那としての氏寺または、菩提寺的存在であった事が考えられます。

山寺薬師堂を出ると、お堂に向かって左手には納経堂があります。
山寺薬師・聖の窟

納経堂の脇から道が続き、ここから約500m程離れた場所に親鸞聖人と恵信尼の3男である栗沢信連房が修行したという“聖の窟”があります。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師に近い場所に、小黒、栗沢、益方、高野。。。と、親鸞聖人、恵信尼の子どもたちの名前が地名になり、近年まで残っていた場所があり、また薬師如来像に三善氏がこの像を造立した旨が記されていることからも、越後の地と三善氏の繋がりを知ることが出来、恵信尼さまは、この地を基盤として活躍していた三善一族と、関わりがあった人のではないかと考えられています。

信蓮房修行場・聖の窟へ向かう途中にある猿供養寺跡。
山寺薬師・聖の窟

この場所に、“猿供養寺”という名前のお寺が存在したのだろう思いますが、人柱供養堂の話の中にも出て来るように、この付近一帯には「猿供養寺」という地名が現在でも残り、板倉区は日本有数の地滑り地帯であることから、現在残る地名については 猿=ザレ、供養=クエ というな崩壊地質を表すワードではないかとも考えられます。

聖の窟の少し下には“恵信尼公顕彰碑” や東屋が建てられ、ちょっとした休憩スペースになっています。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師・聖の窟

顕彰碑から少し上がると、聖の窟へ向かう最後の坂道です。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師・聖の窟

聖の窟(ひじりのいわや)は、山寺薬師背後にある丈六山(560m)の北斜面の中腹にあり、天平年間(729~749年) 裸形上人が山岳仏教のため、この地に来て修行したのが始まりと言われている、自然の岩窟を利用して作られた修行道場で、現在は史跡となっています。
山寺薬師・聖の窟

親鸞聖人・恵信尼の三男・栗沢信連房の修行の場でもありました。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師・聖の窟

現在では入り口の岩が積み崩れていますが、中を覗く事は出来、当時は畳数枚分ほどの広さがあって10人程度が座れたそうです。
山寺薬師・聖の窟

信蓮房が、ここで不断念仏の修行をしたとありますが、京都から越後へと下られた恵信尼さまはひととき、信蓮房とこの辺りに住まわれたそうです。また、恵信尼文書の10通目には60歳前後になった信蓮房が、野積の山寺で不断念仏をはじめたという、私にとっては興味深い1文も見られ、両親譲りの聖道や勧進で越後の人々の信仰にまみれ、生活していらしたのでしょう。

かなりの標高なので、眼下には頸城平野や日本海が望め、まさに絶景です。
しかし逆に言えば人里離れた場所であり、雪に閉ざされる時間も長い山の生活。岩場だけのこの場所で、どんな思いで修業されていたのだろうと。。。
山寺薬師・聖の窟

山寺薬師・聖の窟

山を下りて山寺薬師堂まで戻り、今度は、お堂に向いてさらに右手の道を進みます。
道の途中にあったお稲荷様 と 岩山不動尊
山寺薬師・聖の窟

そこを過ぎてすぐに “延命清水”(薬師の水)が流れています。
山寺薬師・聖の窟

大きなポリ容器を持参し、交互にたっぷり水を汲んで行かれる人たち。
山寺薬師・聖の窟

古くから薬師の水として親しまれ、若返りの水、万病に効くと言われ、難病の人々がこの泉の一滴で命が救われたという話もあるところから「延命清水」と呼ばれています。
車のないころは、難病に効くと聞きつけた周辺地の人々が、背中に一升瓶を背負い、往復25~40kmを歩いて登って来た時代もあるそうです。現在では車がありますし、人柱供養堂前の売店でポリ容器を販売され、多くの人が水汲みに来られます。
山寺薬師・聖の窟

幾つも見える祠には家内安全の大神、水神宮の大神、厄除け開運の大神、交通安全の大神、健康身体健全の大神、雁田大神、入試・受験・試験の神。。。と、まぁ、いろいろな神様が祀られていました。
山寺薬師・聖の窟

清水は、薬師堂の下を通ってこんこんと湧き出ていて、どんな日照りでも、どんな大雨の時でも水量は常に一定だと言われています。やはり雨の後の方が水量は豊富です。
味は無味無臭で非常に冷たくて美味しいです。我が家もペットボトルに数本汲んで持ち帰りました。
ご利益に預かれますように。

訪問日:2011年9月11日・25日(日)
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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