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白河小峰城

2009年09月29日
城址巡り
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阿武隈川の南岸に面した小峰岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370m)を利用して築城された梯郭式平山城で、白河城とも呼ばれています。小峰城は、南北朝期の武将である結城親朝によって興国年間(1340~46年)に築城されたのが城郭としての始まりで、以後白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永正年間(1504~20年)頃には白川結城氏の本城となっています。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置により白川氏が改易となって以後は会津藩の城代が置かれ、蒲生・上杉両氏の支配下に置かれました。
現在にその名残りをとどめる近世城郭は、寛永4年(1627年)に初代白河藩主となった丹波長重が、幕命により寛永6年から同9年にかけて築城したものです。幕末体制の確立期において、外様大名から江戸城を防御する一環として奥州の要衝の地である白河に、幕府が築城を命じたのでありました。



上杉軍が家康の会津討伐に備え、前線基地とした白河市の城がこの小峰城です。景勝・兼続は戦いに備え改修を督励しました。

現在の姿は、江戸時代の改修後の姿です。戊辰戦争により一度は焼失してしまいましたが、史実に基づき忠実に再現されており、木造天守閣の三重櫓が特徴的です。
東北三名城の一つと呼ばれています。

小峰城の門と櫓跡を表示した地図です。


現状における本丸、二の丸を中心とした門(青字)・櫓跡(赤字)の位置と名称です。

小峰城内の門・櫓の数は資料により異なりますが、もっともまとまった資料である「白河城御櫓絵図」と「奥白河城下全図」(ともに文化5年(1808年)成立)によれば、18か所の門と11か所の櫓が確認出来ます。
このなかで、図の範囲に生存した門・櫓は20か所(門:11か所 櫓:9か所)を数えます。

二の丸「太鼓門跡」です。


太鼓門は二の丸の南側からの入口にあたる門で、三の丸からの土橋を渡り、左側に折れた所に設けられていました。
門は高さ約3.8mの石垣の上に櫓をわたした櫓門で、門の規模は高さ約10m、間口が約10mでした。

「白河城御櫓絵図」中の「太鼓御門建絵図」によれば、柱には槻(つき・欅のこと)が用いられ、屋根は茅葺きの切妻屋根となっています。他の城郭の太鼓門(櫓)では、藩士の登城合図などに鳴らす太鼓を置いたとされる例もあり、小峰城でも太鼓を置いていた可能性が考えられます。

二の丸内から見る三重櫓と城址碑。


水堀の左右と石垣を見ながら、本丸方面へと向います。


(写真右) 清水門跡右手(東)の水堀と竹の丸角二重櫓跡櫓台部分の石垣と
(写真左) 清水門跡左手(西)の水堀と月見櫓跡櫓台部分の石垣。

「清水門跡」です。現在は冠木門になっていますが、ここは本丸下の護り門で、往時には両側の石垣に乗る二層の櫓門が存在しました。


門の真正面に見える立派な石垣。


ちびの身長が120㎝ですので、その高さが比較出来ると思います。流れるような石模様が、龍の目と体のようにも見えました。


前御門と三重櫓の見えるところまで来ました。


まだそちらへは行かず、門前を散策してみます。
門前の広い場所は「竹の丸跡」です。


写真奥には、左手に 竹の丸平櫓 があったわけですね。竹の丸土塁上から外の様子です。


木に隠れて写真では分かりずらいですが、お堀が見え隠れしています。帯郭の部分は、現在ではバラ園になっていました。石垣も見えていますが、矢の門跡だと思います。

では、改めて 前御門 と三重櫓 です。


前御門は平成6年に、三重櫓は平成3年に、古絵図を元に忠実に復元されました。


前御門は別の名を「表御門」ともいわれ、名称の示すように本丸に東面する正門として、裏面に当たる桜御門と共に 本城を守護する要所に位置しています。北東隅に三重櫓、東面にして前御門、東南に多門櫓、南中央に桜御門といった続き櫓の構えの中心となっています。
前御門の形式は櫓門で、平櫓の多門櫓が連続して構成されていました。また、竹の丸側の土居に建つ土堀によって枡形としての形態をとっていて三重櫓より続く縄張りが復元されました。

この場から観察していたら、三重櫓の「石落とし」と前御門の“狭間”を見つけました。


門を通り、本丸内部に来ました。 丸内から見た前御門と三重櫓です。


「本丸御殿跡」です。


本丸の平坦地には 御本城御殿(本丸御殿)と呼ばれる建物が存在していました。奥に「御小書院」、中央に「御月番(月交替担当家老の部屋か)」「御奉行」などがあったことから、藩主の居所と政庁を兼ねていたと考えられます。また、「御書院」では家臣を集めた申し渡しなども行われたようです。
建物の規模や外観などは分かりませんが、同じ頃と考えられる別の御殿絵図によれば、畳数は707畳とあり、かなりの大きさだったことが伺えます。

本丸内にあった櫓の1つ「多門櫓跡」です。左側に少し写るのは前御門ですので、それに連続するように多門櫓があったのですね。


桜御門が見えて来ましたが、そちらには行かずに本丸内を散策しながら土塁上に行ってみます。

  
これは武者走りかな!?


もう1度振り返り、土塁手前から見る表御門と三重櫓。

  
土塁上まで来ました。 ここから見る二の丸公園と、白河駅の向こうは当時の三の丸部分です。


二の丸公園のこの部分。。。凹地がありますけど、お堀の跡なのかな!?


本丸土塁南西隅にある“富士見櫓跡 ”(写真左)と
本丸土塁北西隅にある“雪見櫓跡”(写真右)です。


この2つの櫓跡地の下には、先ほども見た帯郭のバラ園が見えます。
この郭の中央辺りには「文庫櫓跡」があるはずですが、この状態ですので、面影はいずこへ。。。


2つの櫓のあった土塁全体の様子(写真左)石碑は「丹羽長重公築城址」のもの。 


写真右の土塁上を歩いて、三重櫓方向へと進みます。三重櫓のすぐ脇にあった「おとめ桜」


初代白河藩主・丹波長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い 石垣造りの城郭を築きあげました。その際、本丸の一角にある石垣が、幾度となく崩れ落ちてしまうことから人柱を立てることになりました。たまたま父に会うためにやって来た藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が不運にも捕えられ、人柱となったと伝えられています。小峰城の完成後、人々はおとめの悲運を哀しんで桜を植え、これが「おとめ桜」と称されるようになりました。

三重櫓内は見学出来るようになっています。


内部の様子と、残りの周辺記事はまた次に! その2へつづく。。。
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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