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木場城址にて♪

2009年03月31日
城址巡り
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木場城は。。。戦国時代、上杉景勝によって建造されたとされる城です。

【木場城想像復元図】
日記写真

木場城は、天正9年(1581年)に上杉景勝によって築かれた平城です。
当時、景勝は織田信長の結んだ新発田城の新発田重家と争っていて、木場城は景勝の全線基地でした。景勝は、木場城の実城に 蓼沼友重(たでぬまともしげ)を二の郭には山吉景長(やまよしかげなが)を配属し、新潟に拠点を置く新発田勢と戦いました。戦いは主に舟を使って火矢を放つ焼き打ち合戦でした。木場城が新潟を攻略したり、新潟が木場城を攻略したり、戦いは一進一退を繰り返しながら6年余りも続きました。
木場城は、天正15年 新発田氏が滅亡したあとも存続しましたが、慶長3年(1598年)の上杉家の会津移封ににより廃城となりました。
木場城は木場集落の西端にあったと推定されていますが、遺構は確認されていなく、正確な位置は分かっていません。【公園内看板より】



先日の天神山城址の記事、物見台の説明のなか「遠く正面の 田上・護摩堂山、さらに木場城や右手の黒滝城まで望む事ができ、大軍の往来が手に取るように観察できます。」と書きました。
これは、物見台にあった看板の説明そのまま記したのですが、ここに出てくる木場城。。。何処にあるのかと調べてみました。

木場城は、現在の新潟市西区(旧・黒崎町木場)にあり、今では宮のもり木場城公園となっていました。
日記写真

復元図の外郭と書かれている部分には、現代の木場城(!?)が建っていて、子どもたちが登って遊べるアスレチック施設になっていました。   
日記写真

堀までめぐらされて、茶目っ気たたっぷりなお城。。。私も入ってみました。

お城前方からの眺め。。。 
日記写真

小山の上には四阿、そこから伸びている滑り台。この地形は、後で作られた人工的なものですね。
滑り台には、小学校高学年の女の子が2人遊んでいました。

私が写真を撮っているので近づいて来て
「ここも直江兼続に関係のある場所なんですか!?」と聞いてきました。
「そうですよ。」って答えると、納得したようにまた滑り台の方に戻って行きました。 
写真には写っていませんが、ここにものぼり旗があるしね。。。

このあと、私が散策している間、ちびはお姉ちゃんたちと一緒に滑り台やお城で遊んでました。(今回ばかりはちびにも楽しいお城になりました。)

お城後方からの眺め。。。
日記写真

写真右の木立の中には木場八幡宮があります。
お城を下りたら、その神社の方へ回ってみたいと思います。

お城、後ろ側の様子です。
日記写真

お城後方奥にある「とんぼ池」


とんぼ池から戻り、右手にお城、左手に神社境内が見える場所です。神社側より、お城のある方が一段高くなってるのが見えます。


神社の脇付近。。。
日記写真

1つ上の写真で確認出来る柵から曲がった辺りには、堀のようなものがありました。
昔の内堀の名残りなのかな!?

さらに進んで、神社入り口付近まで来ました。うっすらとした土塁のようなものが確認出来る程度です。 


冬囲いされていますが、木場八幡宮です。
ここの境内が木場城の主郭と推定されています。周囲に比べて、心持ち高い場所にあるようです。
日記写真

神社の前を通り過ぎた場所で、先ほど見えた堀の続き部分が確認出来ます。
日記写真

堀のすぐ脇から、公園方面に向かっての土塁。
今見てもかなり分厚いもに見えますが、昭和30年代以前には高さ2.5mほどあったとされます。
日記写真

位置的には、神社内を通り公園と反対側に行くと木場砦と名前の付いた現代版の砦に出ます。
日記写真

建てられている土地が、他よりもかなり高くなった部分になっています。
元からの地形がこんな風だったので、この場所に砦を再現したのでは!?。。。と思いましたが定かではありません。

砦からの眺めです。   
日記写真

どの山が見えてるんだろう。。。と、家に戻ってから何度も確認してみましたが、どうも国上山が見えていたようです。(火渡り祭のあるあの場所です。)

砦のすぐ脇には 北陸自動車道 があって、見通しが悪くなっています。
当時はすべてが平地だったので、ずっと向こうまでが見通せたと思います。

砦からの見え方がよくなかったので、とんぼ池付近からの写真です。
日記写真

こんな風に、天神山城をこの場所からもこの辺だろう。。。という場所が確認出来るので、当然、高い場所にある天神山の物見台からも見えるわけですし、狼煙が上がれば確認できるというわけです。



木場城散策が終わるころ、雨になってしまいました。
ちびの公園遊びを切り上げるのにもちょうど良く、車に乗ってふるさと村までやって来ました。
県内各地で「天地人博」が開催されていますが、ここでも開催されているんです。

行く先々で見ますが、土地によって重点を置いて紹介されている人物が違うのも面白いです。(やはり、地元の人物中心のかたちでの展示になってます。)
   
「天地人博」が開催されていた建物には、白根の大凧に直江兼続と、弟の大国実頼がそれぞれに描かれていました。
白根も市町村合併で新潟市になってしまいましたし、大国実頼が城主だった天神山城も、今では新潟市になってますからね。
日記写真

この、畳何畳分もある大凧を 中ノ口川で揚げるのが、江戸時代から続いている「白根大凧合戦」ですが、直江兼続は、治水と新田開発にも手腕を発揮した人でした。
中ノ口川は燕市で信濃川と別れ、西区大野町で合流する、長さ約32キロメートルの信濃川分流です。
しかし、戦国時代まで信濃川・中ノ口川の流れは定まっていなくて、何度も洪水などの水害をもたらしています。

今ではすっかり米どころと言われる県内ですが、当時は川の氾濫のため田畑は水浸しの状態。。。
田圃も、腰や胸まで水のある深田が多く、そんな田圃ではお米の質も酷かったといいます。
先の木場城の周囲にも湿地が多いのは、そんな川の氾濫の名残りかも知れません。
  
兼続は、天正10年(1582年)から慶長2年(1597年)にかけて燕から下流の六分(西蒲区)までの流路を開削し、中ノ口川の流路を固定したといわれています。この河道改修は「直江工事」と呼ばれ、中ノ口川もしばらくは「直江川」と呼ばれたといいます。
また、これによって一つの村が川で東西に分断されたという伝承もあるのです。これらの村々は、江戸時代になると別々の領主に支配され、互いに対抗しあうようになりました。
白根と西白根の間で18世紀前期に始まったと伝わる白根大凧合戦はそのような時代の名残であるのです。

人々が安心して暮らせる環境を作る。。。これもまた「義」なり「愛」なり!なのでしょうね。

登城日:2009年3月15日
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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