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龍澤寺と御舘の乱追悼碑

2009年03月26日
歴史を訪ねて
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3月8日  龍澤寺周辺にて

この日の旅。。。次にやって来たのは 福聚山 龍澤寺(りゅうたくじ)でした。
歴史写真

このお寺には拝観時間が決められていて、しかも、冬季期間は拝観出来ません。。。とパンフレットにありました。
「ダメなら外観と石碑だけでも。。。」という気持ちでやって来ました。

石段から見上げる山門(三門)です。  
歴史写真

上写真の左下。。。石灯篭のようなものが見える前部分には、仙桃院さまお花畑がありました。
歴史写真

そしてこの山門ですが、幼少・若年のころの景勝公、兼続公もしばしば出入りした旧山門が老朽化したために嘉永2年(1849年) 当山二十二世 関忠和尚代に現山門が再建されました。
。。。と説明書きがありました。   
歴史写真

龍澤寺は、約600年の歴史がある臨済宗の寺院です。
現在の伽藍(建物)は今から270年前の江戸時代中期、元文2年(1737年)徳川八代将軍吉宗の頃に再建されています。
このお寺も、景勝の会津移封とともに一度は荒れてしまい、その後、再建されているからだそうです。

ちょうど、玄関前に奥様がいらして
「拝観出来ますか?」と尋ねると
「どうぞ!中へ。。。」と答えが返ってきました。

ドラマも始まっているので、今年ばかりは冬季期間中も開いているようです。
歴史写真

なかに入って間もなく、ご住職さまが出て来られました。
拝観者は我が家の3人だけなのに、ご住職さま自ら説明して下さいました。

お寺の御本尊様は 正式名を『大聖文殊師利菩薩』といい、分かりやすく言うと文殊菩薩のことです。
文殊菩薩というのは 卯年(うさぎ年)生まれ守護仏だそうです。
上杉景勝公の生まれ年が 卯年であったので、母親である仙桃院さまは文殊菩薩に深く帰依し、景勝公の合戦勝利・武運長久を願い守護仏である文殊菩薩を龍澤寺に奉安されたそうです。(干支にちなんで、幼名は「卯ノ松」と言いました。)

その文殊菩薩がこのお寺の御本尊様になっているそうで、「あやの文殊」と称して信仰されています。文殊菩薩はお釈迦様のお弟子の中で「智慧第一」の菩薩とされていて、「三人寄れば文殊の智恵」のことわざでよく知られていますね。
獅子の背の上に座を組み (普賢菩薩は白い象の背に座を組む)右手には智慧を象徴する宝剣を、左手に経典を持っています。

ご住職さまは、「獅子の上に乗ってられる仏様をみたら、大抵の場合、文殊様だな。。。と思ってもらえばいいですよ。それが一番の特徴ですから。」と仰っていました。
文殊菩薩は、普賢菩薩とともにお釈迦様の脇仏様であるのが普通ですが、その脇仏を御本尊に祀ってあるお寺は非常に珍しいそうです。

この時拝見したお寺の御本尊である仙桃院さま御奉納の文殊菩薩は、4月5日の放送の中で紹介されるそうです。
獅子の台座の上、金色に輝く文殊菩薩さまの姿。。。見逃さないで下さいね!!!

この他にも、お寺には 上杉謙信公の御朱印状(上杉家にとって樺沢城や龍澤庵(現・龍澤寺)は非常に重要な拠点であるので) 龍澤庵の門前五軒の諸役を免除するというもので、大きな朱印が押されていました。
これは、謙信公が亡くなる前年に送られた書状でした。

景勝の奥方・菊姫さまの御信用の薙刀も見ることが出来ました。

そして、お寺には 景勝公誕生の碑がありました。
歴史写真

景勝は、弘冶元年(1555年)11月27日 樺沢城下にて誕生しています。
平成17年11月には、お寺で 景勝生誕450年 の式典が開催され、上杉家17代目上杉邦憲御夫妻、栗林一雪氏(樺沢城最後の城主栗林肥前守子孫)など、ゆかりの方々をお迎えしたそうで、欄間に掛けられた記念写真の額を拝見しながらその時の話なども聞かせていただきました。
そして、お寺の向かいにある樺沢城のお話も聞かせていただき、「雪が無くなったら登ってください。」と仰っていました。

樺沢城は、お寺の本当にすぐ目の前の山中にあります。
最後の城主は栗林肥前守。。。ドラマでは、栗林政頼として平泉成さんが演じている役どころです。
歴史写真

上越から関東へと通ずる三国街道、清水街道の分岐点にあたっていて、はじめ坂戸城長尾氏の番城でありましたが、上杉謙信の越後平定により春日山城の番城となり、関東進出の宿城となったお城です。
歴史写真

城址への登山口の脇には 屋敷跡も見えますが、まだ雪が残っていてダメです。
ご住職の仰る通り、雪が融けた頃にまた来る事にします。
歴史写真
    
そして、樺沢城といえば。。。
謙信亡き後の御館の乱では、景虎方についた北条氏と景勝方との主戦場となった場所でもあります。

お屋敷跡のすぐ前には、御舘の乱の追悼碑が建っていました。
歴史写真

【建碑の辞】
天正6年(1578)3月 戦国の巨星謙信落つ 両養子の景勝と景虎 後嗣を争い越後の国は擾乱す
同年8月 景虎支援の北条軍 上越国境を超えて上田に乱入す  
たちまち樺沢城を攻略して本陣となし、藪神方面へ軍を進め 緒城を焼いて 村々を蹂躙す
しかるに 降雪期を憂慮する北条軍 この山城に越冬軍を残し 主力は関東へ撤退す この機に乗じ 坂戸城を死守せる栗林政頼らの上田衆 攻勢に転じて追撃す 
翌7年2月 後方支援なき北条軍 幾度かの防戦むなしく 雪中に孤立して力尽く 兵刃を交えること数か月 ここに露と消えし両軍将兵 その数を知らず
時移り寛文年中(1661~1673) 山麓の開墾とともに人骨のでること夥しと 村人 懇ろに彼地に移し 観音堂を建立してその霊を慰む
よって ここに古を顧み 万世不易の碑をもって追悼のまことを捧げんとす
(追悼碑 裏面文章より)

今度は塩沢を目指し。。。 この日の旅はさらに続きます。
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そふぃあ
Posted by そふぃあ
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