attention admin about comments trackbacks you may also like

岩室地区・天地人ゆかりの地にて♪

2009年03月21日
歴史を訪ねて
-
種月寺
天神山城の東麓にあり、小国氏の居館祉に想定されます。
歴史写真

種月寺は、道元の法流にあたる南英謙宗が、文安3年(1446年)越後の守護上杉房朝の援助によって創建した寺院です。その後、この地の豪族 小国氏の外護を受けて栄え、文明17年(1485)には「首楞厳義疏註経」を寄進しています。

常に多くの雲水たちが修行に励んでいました。かつては越後における曹洞宗の四大道場(耕雲寺・雲洞庵・慈光寺・種月寺)の一つに数えられました。新潟県内を代表する曹洞宗の本堂建築として評価され、平成元年に国の重要文化財に指定されています。
 
歴史写真

山門は安政4年(1857年)の建築です。
歴史写真

歴史写真

現在の本堂は、出雲崎の大工・小黒甚七が棟梁となって、元禄12年(1699年)約310年前に建立された大規模なものです。屋根は茅葺きの寄棟造りになっていて、定期的に葺き替え作業がされています。
歴史写真

境内には、かなりの樹齢と思われる銀木犀がありました。 
銀木犀

金木犀は知っているけど。。。銀木犀って⁉
調べてみたら、開花時期も同じ、花の形も同じですが、白っぽい花が咲くんですね。

秋の花期に見に行ってみたいかも。。。




青龍寺

天平8年(736年)行基菩薩が北陸道を巡察した際、石瀬に開山したと伝えられる真言宗の古刹です。
歴史写真

歴史写真

寺には上杉景勝の書状があり、それによると、天神山城主・小国氏の祈願寺であった事、越後を平定した上杉氏から特権が与えられていた事などが分かります。
歴史写真

調べているうちに【1587年に、実頼(樋口与七)石瀬の青龍寺に安堵状を下す。】と記された一文を見つけました。当時の城主であった実頼からも、目を掛けられていたお寺だったのでしょう。 
歴史写真

こちらのお寺の境内でも、大きな木が植えられていました。
歴史写真
写真左の梅の木には「法華宗総本山 本成寺 開基日印上人 御手植えの梅」とありました。
本成寺は、我が家も度々節分の「鬼踊り」を見に行く。。。あのお寺です。



五輪塔
地元・石瀬の人たちはこの塔を「開基塚」と呼び、塔の脇に生えていた松を「頼政の松」と呼んでいました。
歴史写真
五輪塔は台座からの高さが1メートルほどで、建立してからの長い年月により、5個の石も風化しています。

松は枯れたため伐採され、現在は切り株だけが残されています。
歴史写真

この場所は古くから菩提山と呼ばれ、前出の「種月寺」の寺領とされていた所ですから、種月寺の開基に関係のある 当時、越後守護の上杉房朝あるいは石瀬に館を構えていた小国一族の誰かを祀るために建立されたものと思われます。塔に文字の刻みもなく、また人物を特定する古文書も見つかっていません。このため建立された年代は、南北朝鮮時代から室町時代半ば(14世紀~15世紀半ば)と推定されますが、建立時代も特定することは困難です。
五輪の塔は5つの部分から成り立っていて、現在用いられている「塔婆」の原型であります。



和納館
今はすっかり新興住宅地になってしまい面影もありませんが、天神山城址から直線にして5キロほど。。。現在のJR越後線岩室駅がある周辺には和納館と呼ばれる城館がありました。

二の丸跡と思われる部分に建つ住宅地です。
歴史写真

平成6年(1994年)ここの宅地開発に伴って、県教育委員会が試掘調査し、堀と思われる溝や中世の土器が見つかったそうで、これを受けて翌年には当時の岩室村教育委員会が2600㎡を発掘調査しました。

もう何も残っていないかと思いましたが、付近を散策してみると地元小学生が書いた表示が、宅地開発と一緒に出来た公園にありました。
歴史写真

地元の子どもたち。。。歴史の勉強の時に、自分たちの町にお城がいくつもあった(同じ時代に3つの城です)って誇りなんだろうと思います。一生懸命に書かれた文字、何だかほのぼのした感じがしました。  
 
調査では二重に巡る堀の一部が確認されました。堀で囲まれた館の中からは、明確な建物の跡は復元されませんでしたが、柱穴のような用途不明の穴が多数あり、井戸が四基見つかりました。

出土遺物は、多量の中世土器のほかに、漆の塗られた椀や皿、貨幣や短刀、曲物、串・蓋・下駄・舟形・刀形・橋脚などの木製品、砥石、石臼、土錘などでした。年代は、13世紀後半から16世紀後半の約300年の間のもののようです。
歴史写真
  
上杉景勝の書状により、和納館は、中心部の「巣城」(本丸)のほかに「二ノ廻輪」(二の丸)があり、大規模な館であったことが分かります。発掘調査区域は、このうち「二ノ廻輪」の一部と推定され、館の中心部は調査範囲の南側にあると考えられています。

発掘されたと思われる住宅地から南に移動した付近です。
歴史写真
この辺りを掘ると、実城跡が出てくるのかも知れないですね。
   
上杉謙信の没後、養子の景勝と景虎との間で後継者争いの「御館の乱」が発生し、和納館の城主・伊豆守は景虎方について戦いましたが、天正8年(1580年)景勝方の天神山城主小国氏などに攻められ和納館は陥落し、その後和納館が再建されることはなかったそうです。 

*発掘資料写真は新潟市域の史跡・遺跡と埋蔵文化財からお借りしました。
関連する記事
そふぃあ
Posted by そふぃあ
最後までお読みいただきありがとうございます。
※撮影した写真の著作権は放棄しておりません
画像のお持ち帰りは固くお断りしております※